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Having the skin in the game(身銭を切る)
久々に一冊の本を紹介します。『ブラックスワン』や『まぐれ』などの著書で有名なナシーム・ニコラス・タレブの『Skin in the Game』の翻訳本『身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質』が出版されました。僕は彼の一連の著書、特に『反脆弱性』を特に気に入っていますが、この新刊はまだ読んでいません。ただ、これまでの彼の著書を読んだ印象から言って、この本の主旨も自分が予想しているものと大きな相違はないように思うし、この「Skin in the Game」というタイトルは、まさに僕の信条を代弁していると感じたので、ここで紹介した次第です。ただ、冗談半分ながらも胸を張って言えることは、ランダムハウス社(翻訳版はダイヤモンド社)にこの本を出版し、大々的に宣伝してもらっているタレブ氏よりも、僕の方が確実に身銭率が高いだろうということ(笑)。
以下の話は、僕の様な生き方を選択するごく少数派の人達の気づきや勇気に繋がればと思って書きますが、身銭を切ることが唯一の手段だとは思わないし、身銭を切ることを皆さん全員に勧めるわけではありません。その点ご了承下さい。
「自力で生きる」旅: インディペンデント・レーベルの立ち上げ
僕は音楽レーベル&出版(会社)のModel Electronicを立ち上げて以降、自分の生活は言うまでもなく、この事業にかかる全てのお金を自腹で賄っています。家賃・オフィス代にはじまり、音源&原盤制作にかかるコスト、毎回のリリースのCD製造コストや荷造運賃費などの変動費、プロモーション費用、人件費、弁護士・会計士費用、移動費など、他人に出費や出資などの援助をしてもらった事がありません。渡米する際のグリーンカード(永住権)取得のための弁護士費用や渡航費、マンハッタンのコンドミニアムに住む費用なども、当然ながら自分の預金口座から支払い、小切手を切りました。
僕の取得した永住権は現地のスポンサー(雇用主)の確保や推薦を必要としない分、渡米して以降も日本にいた時と同じく自営&自腹生活です。定期的に給料や手当を振り込んでくれる事務所もないし、何の雇用契約もない。基本「もらう」よりも「払う」ばかりの人生です。それでも世界中からずる賢い機会主義者やタフなビジネスマンが集結するアメリカで、生き馬の目を抜かれて死ぬこともなく生きています(少し気を緩めると、それは十分起こりえます)。
背景と動機
僕が生まれ育った家は裕福ではないし、両親は高学歴ではありません。手狭な社宅に住むサラリーマン転勤族の中流家庭から息子を医者や資産家の子息が集まる私立の進学校に通わせ、東京の大学の受験をサポートするのは両親の負担や犠牲も並大抵ではなかっただろうと思います(そういった進路は僕が希望したからであって、親が無理強いしたわけではありません)。僕もそれが痛いほど伝わり、成人して以降は、自分の希望を叶えるために(たとえ親であっても)「他人に金銭的な負担や援助をしてもらうこと」への罪悪感を強く感じるようになりました。
金銭的な意味だけでなく、人の世話になったり安易に借りを作ることに対して強烈な嫌悪を抱き、拒絶するようになったのは、その頃の思いが下地になっているように思います。
キャリア・パス: はじめは会社員から
大学を卒業してからは広告業界の仕事に就きましたが、実際に達成感のある(巷では「バラ色」と称される)職業ではあったものの、この仕事に生涯全力で取り組むぞ!といった決意を固めるほど夢中になれる瞬間は見出せませんでした。社会的な影響力があり、大きな予算を持ったクライアントのためのプロジェクトにやりがいを感じる人がいることは理解できますが、自分にはどこかしっくりこない部分があった。
前述した「他人のお金を使うこと」へのアレルギーが根底にあったからか、もともと「最後は独立してビジネスをしたい」という気持ちが潜在的にあったからなのかは分かりません。ただ、金の出所や採算を心配することなく、自分で責任やリスクを完全に背負わずして、「自分はクリエイティブな仕事をしている」というバーチャルな満足感(時に「自惚れ」、度が過ぎると「勘違い」)を味わえてしまうことにある種の「甘え」というか、どこかつじつまがあっていない気がしました。要するに、物足りなさを感じたのです。
起業への思い
1997年アーティストとしてデビューした後、幾つかのレーベルのお世話になりました。その間も、自分で自分の音楽ビジネスを切り盛りしたいという思いがあり、アーティストとしての経験を重ねるほど、その思いが強くなってきました。そしてついに2005年、持っていた車を売り貯金を切り崩して会社/レーベルを設立、その後渡米を経て15年ほどこのやり方で生きてきて、キャリアや仕事の面だけでなく、資金の面でもリスクを背負う事の大事さ、そこから得られる「覚悟」の心地良さを日々噛みしめています。
リスクと自由についての人生哲学
ちょっと「成り上がり」的な乱暴な言い方をすれば、自分から進んでリスクを背負い、事業に必要な様々なリソースや権利を自分で所有&コントロールしていれば、他人に(無駄に)頭を下げる必要もなく、また後から恩を着せられたり責められることもない。自分が納得の行かないことや嫌いなものには何の躊躇もなくノーと言える。この「覚悟の見返りとしての自由」こそが自分が求めていた、一つのゴールでした。
人によっては絶対経験したくないかも知れない「全部自腹で生きる人生」こそが、自分にとってはバラ色の人生だった。逆説的ですが、そういう考え方がしっくり来るのです。
伝統的な職業は「安定している」という幻想
世間一般に音楽の仕事や自営業は「不安定だ」とか「将来の保証がない」と見なされる傾向がありますが、自分でリスクを選べない=何か困ったことが起こった時に自分で対策を打てない、つまり「いざという時の責任のかじ取りが出来ない、決定権がない」ことの方が、実はずっと不安定ではないでしょうか。どんな不況が来ても、どんな失敗をしてもクビにならず、どんなに経営者が無能でも倒産せず、肩たたきも定年退職も一切ない会社とかがこの世に存在するのなら話は別ですが、そんな夢のような話は100%ありません。
僕の様な考え方が超少数派なのはよく理解していますが、人生や自分の生活に「安定」を求めてリスクを取ろうとしない人や、リスクを取る人を非難・揶揄する人は、自分の職業や人生において、何が安定して、何を保証されていると思うのか、またその代償として失うものはないのか、最後に何が残るのか、その辺りをじっくり検証してもらいたいと思います。
「他人のお金(OPM)」という両刃の剣
とはいえ、今日の話はとても個人的なものです。そもそも、他人のお金(OPM=Other People’s Money)を使うこと自体が悪いわけではないのです。世の中はスポンサーや投資家、銀行のお金を使わないと立ち上げること自体が難しい大規模プロジェクトで溢れかえっていますし、そうしたOPMを賢く使うことで実際に社会を前に進める牽引力となった事業は数えきれないほどに存在します。ただし、他人のお金を使うことへの自覚が薄いと、お金に関して大きな勘違いを起こしやすいのは確かです。
身銭を切ったことがある人が起こすプロジェクトと、会社や資本家、銀行のお金(さらには税金や政府の補助金)ありきでしか動いたことのない人が考えた事業とでは、実現の可能性だけでなく、そのサスティナビリティや信頼性も全く異なってくるのは容易に想像できるでしょう。
「OPMカルチャー」の落とし穴
国を問わず、テクノロジー業界やスタートアップ界隈では、ビジネス自体の価値や耐久性をより確実にすることよりも、差し迫ったOPMを引き出すテクニック(これを「ファイナンス」とカタカナで呼びだがる)や話術、ネットワークを持っている事こそが「スマート」であり「ハック」なんだというカルチャーがあるように感じます。そういう思い上がった自称「起業家」達にホイホイと出資する、これまた口八丁手八丁や上場ごっこでイージーマネーを手に入れた投資家や金銭感覚の麻痺した出資者が存在するから成立するのですが、これはあたかも運転免許取り立てのドライバーがスーパーカーでハイウェイを時速200キロで走ってキャーキャー騒いでいるようなものだと思います。
無事クラッシュしないで走り抜けてしまうこともあるでしょうが、それは結果論であって、再現性があり、知恵として他人が共有できる成功ではありません。しかしながら、OPMを使うことや使わせることに自覚が薄く、それで運良く上手く行った人はそこを過信してしまうのです。自分には錬金術師の才能があるんだと。
最近のスキャンダルやOPM依存の傾向から学ぶこと
残念ながら日本人も関与していた、ここ最近のMITメディアラボのスキャンダルやWeWorkの失態などを見ていると、他人のお金を使うというのは麻薬の様に常習性があって、断ち切れないものなのだろうなと想像します。その両方とも縁のない人生を選択してきた自分を幸せに思います。