音の変化
デ: 今日はさ、技術的なことは一切聞かない!!って早々と宣言したけど(笑)今、日本からアメリカに拠点を移したっていう話が出たので、そのことと音作りとの関係についても聞きたいなぁと、ちょっと思ったんだけど。
オオエ: うん、どうぞ。
デ: 例えばさ、ピアノの音とかそうなんだけど、以前のOEとかCaptain Funkの時の音ってのは、失礼な言い方かもしれないけど、ちょっと荒削りな感じがしたわけ。もっと言ったら、ぶっきらぼうな感じっていうか(笑)。それがね、アメリカに来て出したDark Modelの音がね、もうね、素晴らしいわけ。キレイになったというか、クオリティが格段に上がったというか、え~これ、同じ人間が作ったの!!どうなってんの~!?みたいなさ。で、今回のOEのアルバムの音を聴いて、新曲にしろ以前の曲のニューミックスにしろ、音がぐっと洗練されてるわけ。
オオエ: あ、そうそう、全然違うでしょ(笑)
デ: うん、そう。鳴り方が「キレイだな~」っていうさ(笑)。そういう音のクオリティの面でも「今を伝えたいこと」というかさ。タツヤが時代を駆け抜けたというかさ、なんていうか生き抜いてきましたよーみたいな(笑)力強さが、音からも伝わるわけ。成長してるっていうかさ。そこら辺の音のクオリティの面に関してはどうなの?なんかあったわけ?心境の変化っていうかさ。やっぱアメリカに来て作り上げたDark Modelからの影響ってのは大きいの?
オオエ: うーん、そうだね。Dark Modelで実現できたというか、形になったというのがあって、やっぱり10年ぐらい前から、アメリカとか海外を一層意識するようになって、ダンスミュージックとか、これまで自分がいた日本のシーンを離れたところで音楽制作ってのを考える機会がますます増えたというのはあるよね。
デ: あーはいはい。うん、それで?それで?
「勝つ音楽」「負ける音楽」
オオエ: リミックスとかCMとか、外部からのオファーで音楽制作をするのは日本でもやってたんだけど、自分に一本釣りで指名が来た上でやっていたわけだし、やっぱり知り合いの中でやってる分では、自分のクセを理解してくれているだけに、我流のままである程度済むところがあって。自分の作風に何が足りないか、どういうところを味付けするともっと広がるかっていうテクニックの部分、技術的な部分ってのは、そこまで意識しなかったの。むしろ我流でやってる方が個性が出るって思ってたしね。
もちろん今でもそういう考え方はあるんだけどね。ただ例えば、僕がこの10年位力を入れている、アメリカのハリウッド映画やその予告編、あとはテレビドラマやCMなどに音楽をライセンスする(注:クライアントのプロジェクトのために新たに曲を作り下ろすのではなく、こちらが既に持っている楽曲の使用を相手に許可して、使用料を受け取る)世界とかになると、ガチな競争になるわけですよ。そういう世界では当然「音楽を欲しい人」がいるわけでしょ。彼らの側には「こういうシーンに相応しい、こんな曲を求めている」っていう、はっきりとしたニーズがあるわけ。で、一つのシーンや映像に何百という楽曲が集められて、色々なゲートキーパー(中間でジャッジをする人)をくぐり抜けて、最終的に選ばれた楽曲だけが「勝つ」というね。勝った人間以外は何も得られないという、実力主義のシビアな世界。
逆に言えば、アーティストとして有名か無名かとか、人種もコネも関係なく「音」だけで勝負できる世界ということだよね。バークリーを卒業して、ロサンゼルスのエージェントに所属するエリート作曲家だろうが、メジャーレーベルから出たバンドのアルバム収録曲だろうが、(日本にいた当時)LAとは17時間も時差のある東京で、完全に独学で音楽を作ってる僕のような日本人アーティストだろうが、全然関係ない。これは自分に向いている、面白い「ゲーム」を久々に見つけたな!って思ったんだ。スポーツ競技にハマるみたいな感覚でね。
デ: なるほどねー。シビアな世界だね。でもそんな、既にある程度のキャリアを持ったアーティストならわざわざ踏み入れたくないような、しかも海を隔てた過酷な世界に、タツヤはあえて可能性を見出したんだね(笑)。
オオエ: そうだね(笑)。確かに、そういう世界に自分は案外今まで入っていかなかったし、そこそこ上手くやってるつもりでいた。まぁ、最初の頃からのテクノ的というか「ベッドルームミュージック」って言うんだけど、ベッドルームで作った音楽で何が悪い!!っていう、パンクというかなぁ、ある意味。長らくそういうところで勝負していたところへ、彼らの業界の視点で見て「クオリティが高いと見なされる音楽」「プロが欲しいと思う音楽」という物差し、もっと言えば「勝つ音楽」「負ける音楽」がはっきりと存在するんだなぁって改めて気がついたのが、その頃なんだよね。もちろん、彼らが選ぶ曲に個性があるかないかや、音楽として面白いかどうかは別問題だけどね。
「個性」と「クオリティ」に対する考え方の違い
デ: タツヤが新しく経験した世界での「クオリティが高い」ということと「個性」との関係について、もう少し説明してもらえるかな?
オオエ: 「クオリティ」と「個性」の関係について言うと、日本、もしくはダンス・ミュージックとかテクノの世界だけで活動してるとね、そこら辺にちょっと、甘えが出てきちゃうところが自分にもあって。それは一般的にもあるような気がするんだけど、「個性」や「オリジナリティ」を重視、というか過大評価し過ぎて、音楽自身の「クオリティ」に対してのチェックが甘くなるというのもあるように思う。音楽産業的というか、競争社会的な目線で「クオリティ」を上げることをあんまり意識しすぎると、自分の「持ち味」や「らしさ」ってのが削れてしまうんじゃないか?みたいな。
ロックは昔から特にそうだけど、不器用な方がむしろアーティストとしては格が上、みたいな「神話」が信じられていて、アーティスト本人や、それを取り巻くジャーナリストとかメディアの方も、その神話の上であぐらをかいてしまう風潮はある気がする。突飛な才能があるけどそれ以外はからっきしダメで、出来れば早死にした方が、よりアーティストっぽくて天才肌に見える、みたいなね(笑)。自分もそういう文化というか、価値観の中で育ったと思う。でもある意味、アーティスト本人にとっては「俺はこれでいいんだ」という自信、時に「驕り」とは裏腹の、突っ込まれたくない部分に対する「恐怖感」みたいのが同時にあるんじゃないのかなあ。
デ: ふむふむ。それでそれで。
オオエ: でもね、一部の世界を除いて、また、音楽に限らず、アメリカでは実は、僕ら日本人が日常的に言う意味での「個性」や「独創性」にはあまりこだわっていない。それよりも、その創作物がビジネスとして求められているか、お金を生むことに貢献出来るかどうかに注目している。良く言えば「いかにプロっぽいか」ってことかもね。僕はその風潮が必ずしも良いとは思わないけど、ビジネスの世界に限って言えば、「個性」はほっといてもまぁ、ある程度何とかやっていける。
僕らが「個性」と呼ぶものよりも、こういうタイプ、こういうタイプみたいなのが欲しいという、ある「ガイドライン」「基準」に沿って、個性を大きく括った「パターン」とか「鋳型」を求めているフシがあるんだよね。一つのパターンがブレイクすると、その亜流みたいなバンドやサウンドが一気に広がって、CMなんかでも似たような音楽が蔓延する。こちらに来て、テレビや映画をずっと見てれば誰でも感じると思うけど、その「金太郎飴」ぶりは、日本の比じゃないと思う。
昔日本で「ナンバーワンよりオンリーワン」ってのが流行ったけど、オンリーワンで個性が突出しすぎちゃうと、逆に「使いにくい」「汎用性がない」ってことで、リスクとみなされることもある。これを聴いてみんなは意外に思うかも知れないけど、僕もそこは日本にいる時はあまり気付いていなかった。正直、そこには少しガッカリした点ではあるかな。「あれ、日本より全然保守的で、フツーなんだな」って。
突出したセレブリティでもない限り、ぶっちゃけ、その人本人じゃなくても、近い個性を持っていれば替えが効く。それよりも、結果に貢献してくれるクオリティの基準を満たしていることの方が大事。音がプロっぽいとか、仕事が早いとか、人の話に耳を傾けられるとか。それら「プロとしてどれだけ洗練されているか、ソツなくこなすか」をひっくるめて「クオリティ」というのかも知れないけどね。
「俺アーティストだから、そこんとこよろしく」的な傲慢さとか、斜に構えたアティチュードは、少なくとも今のアメリカでは最高にNGなんだ(笑)。イギリスやヨーロッパでそこそこ人気のアーティストであってもアメリカでブレイクできるとは限らないのは、その辺りの労働観、職業観の違いみたいなのも関係している気がする。
「ヘタウマ」のない世界、プレゼン上手が勝つ世界
デ: 確かに、イギリスとかのヨーロッパ出身のアーティストで、アメリカでもブレイクするタイプとそうでないタイプはありそうだね。じゃあ、日本にあって、アメリカにあまりいなさそうなタイプってあるかな?
オオエ: 「どんなに下手でも、面白いものは面白い」っていう価値観、言ってしまえば「ヘタウマ」とか一発芸な世界は、少なくともエンターテイメントの世界にはあまり「無い」、というか認めないんだよね。アメリカでは。彼らの「プロっぽい」という基準に合致しないんだと思う。
デ: あ~。ある程度のボーダーラインを「クオリティ」の面でソツなくクリアしないといけない、ってことね。
オオエ: 日本では、やっぱり「ヘタウマ」に対して寛容なところがあるよね。下手も含めて「個性」「オリジナリティ」があるというか、「個性」を失わないことを本人も大事にするし、周囲も大事に思ってくれるというのが少なからずあるように思ったんだよね。日本の場合、みんな近い民族性を持っていて、その人の才能もクセも含めて、芸の「行間」とか「文脈」を読み取ってくれるからじゃないかな。いわゆる、「ハイ・コンテクスト」ってやつね。
クリエイティブな「原石」を発見して、大事に育てるという、懐の広い価値観が残されている日本はとても幸せだと思う。まあ弊害としては、プロのボーダーラインが曖昧になりやすくて、「なぜあの人はプロで、この人はプロじゃないのか?」ってところが、はたから見ると分かりにくくなるってのはあるけど。
デ: 確かにね。僕はYoutubeとか見てて、日本の芸人さんとか、どこら辺が面白いのか時々分からないことがあるかも(笑)。それと比較して、アメリカはどう思う?
オオエ: そこにきて人種も価値観もバラバラなアメリカでは、「クオリティが低い」とか「洗練されていない」ってことを「個性」と引き換えにしてはいけないというか、言い訳とは見なされない感じがあるね。「プロであること」とか「クオリティが高いこと」のルールとか基準をある程度はっきりと作っておかないと、この多民族社会自体が成り立たなくなるからだと思う。これは「ロー・コンテクスト」ってやつだよね。
だから「クリエイティブ」な発想を感じるものであっても、仕上がりのクオリティが低いと評価をしない。話やアイデアは面白くても、演出とか話術、立ち振る舞い、つまり「プレゼンテーション(見せ方)」がダメだと、気にもかけてくれない、みたいなことかな(笑)。
逆にその風潮のおかげで、見せ方のテクニックだけ洗練されてて、実は中身が乏しいプロダクトや映画、人が大絶賛されたりすることは多々あるよね。僕は何でもかんでもアメリカは素晴らしい!派じゃないから、その弊害はないとは言えないなと思って見てはいるよ。
渡米で得られたもの
デ: う~~ん、弊害ね…。とはいえ、アメリカでの仕事の経験が技術面を強くしたというか、プレゼンテーションの「クオリティ」を上げてくれるようなきっかけにはなったと。
オオエ: そうそう、そういうことですね。だからアメリカと日本両方の良いところから学ぶとすると、「音のクオリティの面でも、創作の個性の面でも、言い訳の余地を作らない」ということかな。もっと具体的に言えば、クオリティは上げられるだけ上げて、かつ、アメリカの音楽シーンからは絶対出てこない、自分しか創れない音楽で勝負するんだ!って覚悟が据わった。「クリエイションでリスクを取ることを恐れない」という気持ちは変わらないというか、むしろ強くなっているんだけど、その見せ方に一層神経を使うようになったとは言えるかもね。
デ: そう思いますよ。僕はそこにはびっくりしましたよ。Dark ModelといいOEといい。Dark Model聴いたことない人は、ぜひね、Dark Modelのアルバムも聴いて欲しいと思いますけど。全然OEとは違うプロジェクトなので。
そういえば、ブログ「Findings」でね、さっきの「クオリティ」について言及している日があって、これまた良いこと言ってるんですけど、読みますよ。僕、復習してきたんで(笑)。「Findings」からの抜粋ですけどね。「本当のプロとしてのキャリアを開拓し人生を全うするにはアーティストであれ、コンポーザーであれ、「多様性・多作」であるということと「クオリティ」はどちらが問題ではなくて、どちらもマストの「両輪」に過ぎないという確信に至りました。」というのをおっしゃっていまして、ま、話をまとめますと、まさに今回のOEの二枚組はその「有言実行」なアルバムなのかな~と思いますよ。それがすごい出てるなぁと。
オオエ: はぁ~(笑)。
デ: うん、だってアルバム二枚だよ!!(笑)すごい時間かかるでしょ、これ。
オオエ: うん、かかる。
デ: しかも何曲ですか。これ。めっちゃ入ってますよね。
オオエ: 18曲かな。
デ: 18曲!?
デ: まさしく「有言実行」なアルバムだなって思いましたよ。また言うけど(笑)。
オオエ: ああ、そういってもらえると嬉しいです。