今日は遅くなってしまったので、まずは音楽と書籍を紹介しますね。
最初はドイツはベルリンのレーベルGreat Stuffから Karotte “Tronic“。ビートの刻み、揺れ方がかなり気持ち良いが、そこはベルリンらしいひたむきさが染みる一枚です。ジャケットが文字通り”Tron(ic)”(映画「トロン」)してますね。
次はこれから発売される洋書ですが、”Disco Years“。’70sセレブリティの写真を数多く撮っていることで有名な Ron Galella の作品を集めた一冊です。個人的にStudio54に代表される Disco Eraには興味があるのと、先日Louis Vuitton のパーティーでGrace Jones(グレース・ジョーンズ)を見た時の印象がフラッシュバックして、予約しようかなと思った次第です。
ディスコに関してはAlbert Goldman(アルバート・ゴールドマン)という有名な研究家が書いた “Disco -the book-“という本があるんですが(’78)、2万円は下らないというシロモノなんですよね…(^-^;)。というわけで、割と手に入りやすいところで、’80sのディスコ本、ではなくて一応アンチ派としての80年代のニューウェーブを解説した一冊、 “This Ain’t No Disco” をご紹介します。今から20年近く前に同タイトルの, CBGBのストーリーを綴ったドキュメンタリーがありますが、このピンクの方はアルバムカバーを中心に掲載したビジュアル本です。デザインや色使い、ミュージシャンのセレクションも個人的にしっくり来る内容です。
DJの自分が言うのも変ですが、文化・風俗史としてDiscoを考えるとかなり興味深いものがあるなと思います。僕はもちろん現場派、実践派なので、自分で本にまとめ上げたりすることはないでしょうが(笑)、日本のディスコだけでも立派に本や映画になる位の歴史がありますよね。と書きながら、小学生の頃週刊誌で「日本のトラボルタ大集合」みたいな特集ページがあったことを思い出したんですが、何故か頭に剃り込み入ってる人も多かったような…(笑)。その頃の事が気になる方は、”原たかし””ムーチョ・マッチョ・マン”で検索してみると、当時の和製ディスコ・キングの貴重な音源に辿り着けるかも(^-^;)。
閑話休題。このDiscoとNo Disco (Wave) 的なイデオロギーって、お互いカウンターの関係にあるような響きがありますが、それぞれが経済的な循環のどこで生まれたか、運動の主体がどこにあるのかという違いはあるものの、「カッコよく夜飲んで暴れてモテたい」という人間の欲望の根源という軸で切ってしまえば、根っこはあまり変わらないと思います。(アンディ・ウォーホルなどは、Studio54的な世界とNo Disco的な世界の両方を上手く、さらに言えば、「ずる賢く」渡り歩き切った稀有な存在では?)
’90s中盤、それまで席巻していた初期レイブがNo Future的なテクノやIntelligent Technoを標榜するリスニングに分化していったのも、マクロ的な経済循環とリンクしていたし(膨張/バブルの下り坂では、それまでの下世話を極め尽くした華やかで饒舌な音楽に変わり、パンク、ニューウェーブ、テクノなどのレジスタンスミュージックがインテリ/アート側から台頭する)、お互いアンチなイデオロギーを放ってはいたけれど、夜な夜な人が集まりくだを巻き、カッコ良い所見せたい、出来れば異性(もしくは同性)と仲良くなりたい!という動機は同じな訳で(笑、そりゃ人間ですから)、その動機を表現する「演出部分」もしくは「設定(セッティング、モード}」が時代に応じて変化したりズレたりするだけなのではないかとすら感じるのです。もちろんその「設定との距離感」こそが自らのアイデンティティと深く繋がってくるため皆そこに意識を集中させるのですが、根源的な人間の欲望は、実はその設定の変化とはあまり関係がない。
マズローの段階欲求的な話で言うと、ダンスミュージックのジャンルやカラーまたは「場での振舞い方やマナー、アティチュード(=尊敬の欲求や自己実現欲求)」と、「モテたい、仲間に入りたい(=社会的欲求、愛情の欲求)」の根源的な欲望とは、常にピラミッドの階層の上と下の関係であって、表現形態や比重こそ変われど、その位置関係が逆転することはありません。荒っぽく言えば、人間の上半身と下半身が入れ替わることがないのと同じです。
と考えると、どんな音楽にもつきものの「ビート」という要素は、「愛情の欲求(Love and belonging)」のレベルの欲望を具現化したものとも言えるかも知れません。パスタと具の関係と同じとも言えますが(笑)、好みやトレンドによって「カッコいい形、尊敬されるスタイル」は変わって行っても、コシのあるビート(グルーヴ)が支えていないとダンスミュージックには成り得ませんし、そして人間がノレるビートのパターンも欲望のパターンと同じく、実はさほどバリエーションは多くはないわけです。もちろんフェティッシュ的な欲望が生まれれば、ビート側もフェチ化して行く訳ですが、それは飽食の時代ならではの贅沢な嗜好品の様なものだと思います。
長くなってしまいましたね…。人間はその時代時代に応じて、ハッチャケのための口上(=パンツ)や「物語」を作り出し、ダンスミュージックやパーティーミュージックはその状況を演出する「触媒」の様な存在として進化・変貌してきました。僕はそんな人間の欲望(サガ)に根ざした音楽がとても好きだし、そのシンプルさがダンスミュージックの理屈抜きの楽しさに結びついているんだろうなと思っています(^-^)。
って、散々理屈こねといて、そんな終わり方が?と突っ込まれる前にまとめておくと、要するに、DiscoもNo Discoも根っこはDisco=下半身で、大きく見れば大差ないよってことです(爆)。