引き続きDark Modelのニューアルバム「Saga」についての解説です。Vol.1、Vol.2、Vol.3も併せてお読み下さい。
今回はアルバム自身の解説というよりも、アルバムのコンセプト「聖戦」の背景にある僕の考察をつれづれと書き留めたものです。あくまで僕の経験に基づく個人的な解釈だと受け止めて下さい。平時であれ非常事態であれ、「家族」や「血」に対する思いや執念は、本来生きていく上で最優先されるもの。このことを強く意識するようになったのは実はこの5,6年、アメリカ(もしくはニューヨーク)に移住する前後からです。仕事で海外との接点は常にあったものの、日本で生活しているうちはそういったことを意識しなくても自分なりの「生きる上での動機」を持って生きて来られました。この国に来てから人間の動物的、本能的な部分について考えさせられる機会が増えたというのは以前のFindingsでも書きましたが、生きる上でも仕事の上でも、もっと根本的なレベルで人間を観察し、よりタフな「アニマル」として生きていかねばならないという自覚が備わったのは確かです。具体的な例はスペースと時間の都合で割愛するとして、この国では国民一人一人の当たり前の感覚として、戦闘意識や生き残り意識を持たざるを得ないような、切迫した事態や軋轢、駆け引きの瞬間が日常生活のさまざまな面で現れます。
平時も戦時も変わらず大事なものは何か?
日本では一般的に「アメリカ人は日本人より個人主義で、組織での和を重んじる日本より個人プレーが好きだし得意」という見方が浸透していますが、個人云々以前に、彼等は敵・味方を明確に線引きします。ひいては「何をもって家族(身内)とするか」が我々のそれとはかなり異なります。そこにはまず彼等の宗教観、民族観が強く根底にあるのはもちろんのこと、移民として大陸にやってきた者ならではの「生き抜くための知恵」がそうさせているように思います。アメリカは我々が想像している以上に宗教色が強い国で、その大部分はキリスト教ですが、ニューヨークではユダヤ人の存在が非常に大きく、他の州とはまた様相が異なります。彼等の血族やルーツへのこだわり、身内の団結力の強さは、この半世紀の彼等のアメリカでの存在感・勢力の拡大ぶりを見ても明らかでしょう。また、ユダヤ人に限らず、それぞれの人種によってバージョンの異なる「ゴッドファーザー」的とも言える世界観、スピリットは今も色濃く存在します(ちなみに僕があの映画を単なる物語ではなくリアリズムとして理解できるようになったのは、マンハッタンに住んでからです。)
そのこだわりが一般生活だけでなく、政治、ビジネス、エンターテインメントの勢力図にも実はものすごく影響している、というのは、日本にいるとなかなか肌で感じることの出来ない事実です。アメリカではアパート一つ借りるにも、弁護士一人雇うにもこの「誰に頼むか、誰と組むか」の問題は大きく影響してきます。僕らが親しみ楽しんできたアメリカのポピュラーミュージックやアートの世界も、そういった「血への執念」が根底にあってこそビジネスとして拡大・浸透してきたという背景があるのです。例えばヒップ・ホップは、黒人とユダヤ人がタッグを組んで共闘しなかったらここまで大きなジャンルとして成長していないでしょう。
エンターテインメントや不動産のようなビジネスにしろ、ヘイトクライムや(宗教)戦争にしろ、それが潜在的で生産的ものか、明らかに危険で破壊的なレベルへとエスカレートしたものかの違い、どこまでを身内として線引き・許容するかの範囲の違いは大きいにしても、基本的に「血の主張・闘い」が下敷きになっていることには実は変わりがありません。愛国心やナショナリズム云々と比較にならない位、この問題は非常に大きいと僕は考えます。(ナショナリズムというのは所詮、国家という理性・理屈で出来た枠組みへの忠誠ですから、個々人のルーツへの執着心や忠誠心に本来勝てるはずもありません。)
日本では?
「血」に関して言えば、日本にも戦国時代の封建社会や皇室はもちろんのこと、解体される前の財閥や一部の実業家の家系などにはそういった行動原理が働いていた(いる)ように思いますが、戦後の高度成長に伴って核家族化とサラリーマン社会が急速に進んだ日本は、家族や自分自身よりも仕事の付き合いや緩やかな組織のミッションを、時に実際の家族以上に優先するようになりました。だから平時には「薄い組織」である会社やコミュニティ(昔学校でこれを「ゲゼルシャフト(利益社会)」と呼ぶと習いましたね)に対しての忠誠心が社会的には機能しているものの、いざという時&究極の事態に出くわした時に「誰と何を守るべきか」についての絶対的な信念、拠りどころを保ちにくいという側面があるように思います。平時は家族のように感じられる会社の同僚との繋がりは、自分と家族の存在・生命を脅かすかもしれないようなのっぴきならない事態では、役に立たない。でも家族や子孫を守るための準備(習慣的・儀式的な行動も含めて)を普段から周到に行っているかといえば、それもあまりない。平時も戦時も家紋を掲げてアイデンティティを確認しあった戦国時代に比べると、現在は平時と戦時の「守るべきもの、信じられるもの」が一直線上にはないように感じます。
もちろん上記の様な状況も既に変化し、共同体意識を飛び越え、現在の日本は超がつく位の「個人主義」に向かっているとも言えますが、「守るべきもの、信じられるもの」という観点から言えば、ますますそれが希薄になっているような印象を受けます(その超個人主義のお陰で生み出されたオタク文化、お一人様文化は日本の大きな強みとなっているとも言えますが、それの良さを云々考察するのは今回の話の主旨から逸れるので省きます)。
翻ってアメリカはどうでしょうか。アメリカにももちろん十分に成熟したゲゼルシャフトは存在するとは言えるものの、企業であれ軍隊であれ、家族や自己を取り巻く環境が安定・繁栄し、そこに誇りを持てない限り組織に前向きに貢献することは難しいと考えるでしょう。平時であれ戦時であれ「組織や国家以前にまずは自分の血族(家族)の安泰・繁栄と宗教が最優先」という点で、基本的には今も一直線上にあるものなのです。現在叫ばれているアメリカの分断は、「それでも組織や国家などの機能と枠組みは大事だ」という、守るべきものを建前レベルにまで拡げて考える心の余裕、経済的余裕がなくなってきているということを示しているように思います。
そう考えると、一族経営の感覚の延長で半ばホワイトハウス、というか国という機構をハイジャックしてしまう現政権のような存在が現れるのも歴史の必然なのかも知れません(個人的には時代が中世に向かっているように感じます)。成熟したグローバル社会・資本主義社会においては様々な局面でこの血族優先主義、宗教第一主義との軋轢・歪みが生じることは避けられず、どこで折り合いをつけるかのせめぎ合いは途絶えることはないでしょう。
(ここで僕が伝えたいのは、そういった行動方針・信条の良し悪しではなく、その特徴や我々日本人の違いを把握しておくこと、対応の仕方、さらに言えば「闘い方」を習得することがとても大事だということです。外国語を学ぶこととは違って、この辺りの感覚は実際にコミュニケーション(要は「喧嘩」、笑)の場数を踏まないと得られないのが難しいところですが。)
エンターテインメントの世界では?
ところで、こういった違いは人気が出る映画や小説のプロットの違いにも反映されているように思います。ヒーロー物やアンチ・ヒーロー物にある「普段権力も体力も持ち合わせない一個人が世界を救う&悪者に立ち向かう、世界を揺るがす」的なトリックスター的な神話・勧善懲悪のドラマは(それがマーベル・コミック的であれ、引きこもり的で欠点だらけのダーク・ヒーローであれ、桃太郎の鬼退治的な小グループであれ)国を問わず人気が出ますが、アメリカやヨーロッパ、中国の映画やテレビドラマで見られる「ドロドロの王位継承」的なストーリー、救われることのない「血と血の闘い」の群像・サバイバル劇は、現代の我々日本人には今ひとつピンと来ない、感情移入しずらいのではないかという気がします。日本の現在のドラマの場合は、例え時代劇であってもそこにテーマをあからさまに据えるということはしないのではないでしょうか?日本では上で紹介した「ゴッドファーザー」よりも「仁義なき闘い」の方が普遍的に人気があるのも、現代ヤクザが一般の組織や企業と同じくゲゼルシャフト的であるから、しっくり来る部分が多いのだと思います。
逆に、ああいった残酷なサバイバル劇がアメリカやヨーロッパで人気を博しているのは、彼等の現実社会との相関性がかなり高いので、感情移入しやすいのです。彼等にとっては「ゲーム・オブ・スローンズ」の様なドロドロの血の闘いも「ウォーキング・デッド」の様なディストピア(地獄郷) からの生存競争も、作り話ではあるものの、彼等の根底にある現実認識や幼少から教え込まれた(性悪説を下敷きにした)宗教観・血族意識と実はあまりかけ離れてはいないという印象を受けます。
そんなことを考えながら作ったのが「Rage and Redemption」や「Inferno Suite」です。お楽しみ下さい。
「Rage and Redemption」試聴
(このYoutubeビデオはファーストバージョンです。アルバムバージョンとはミックスが異なります)