マイクロブログ・アーカイブズ 2025年2月
近年放送業界やネットでも「フィンガープリンティング技術」を楽曲使用報告に活用するケースが増えているため、未検知・誤動作の影響はビジネスにも及んでいる。街やラジオ、テレビでかかっている楽曲をShazamで調べるようになって長いけれど、バラエティやナレーションの入る番組のBGMやライブ演奏の楽曲を識別させるのはまず無理で、全く関係のない曲が表示されることが多々ある。
近年放送業界やネットでも「フィンガープリンティング技術」を楽曲使用報告に活用するケースが増えているため、未検知・誤動作の影響はビジネスにも及んでいる。街やラジオ、テレビでかかっている楽曲をShazamで調べるようになって長いけれど、バラエティやナレーションの入る番組のBGMやライブ演奏の楽曲を識別させるのはまず無理で、全く関係のない曲が表示されることが多々ある。
新作『Moment of Now (Suchness 5)』ではこれまでのSuchnessの時間感覚や浮遊感に「時間を止める」という要素を取り込んでアイデアを練った。記憶に頼らず、感情も引き出さないでひたすら「今、目の前にあるもの」だけに意識を集中させる。それが習慣的にできるようになったら収穫は大きいと思う。
本当の人生は「人生(この世)はばかばかしいもの」と気付いた瞬間から始まる。ばかばかしさを原点として、生き甲斐を見出しながら、他人や社会にマイナスではなくプラスになることをしようと奮闘する。この無限音階の様な「らせん」を楽しむのが人生。
シリアスで斜に構えた作品を作るよりも、心が躍動し気持ちが前に向く作品を作る方が遥かに「人としてのパワー」が要る。悲観や恐怖、ニヒリズムを唱え、煽るのは簡単だし、それに染まるのはもっと簡単で、油断すると重力のように下に引っ張られていく。
「考えること」の大事さは誰もが理解しているが、「考えないこと」=無心になることの大事さは意外と理解されていない。マイケル・ジョーダンやコービー・ブライアントのトレーナーと、禅僧のティク・ナット・ハン。すなわち熾烈な競争を勝ち抜く達人と、心の平穏(マインドフルネス)を説く達人。彼らの心構えが「Don’t Think」という共通項で繋がるのは興味深い。
「Numbers Game(数のゲーム)」と「Waiting Game(待ちのゲーム)」について。アクションの数を増やしながら学習をすること、時間の差や流れを戦略的に活用すること。この2つのゲームをバランスよく掛け合わせて、人生を実りあるものにしていきましょう。
一人の人間には2つの「セルフ」がいる。セルフ1は「うまくやれ」「失敗したらどうする?」「恥ずかしい」などと、セルフ2に余計な口出しをし、世話を焼く。この雑念から解放されて、セルフ2が無心で事に取り組めたら万事が上手く行く。僕の場合、曲作りとウォーキングの時はセルフ1が殆ど登場しない。
セネカは「人は財産を奪われると激怒するのに、(労働や他人の怠慢で)自分の時間を奪われることに対しては恐ろしく鈍感だ」というような事を説いた。2000年経った今も、金銭や名声への執着や憧れはあっても、時間を有意義に使った人や、自分のための時間を確保できた人のストーリーに着目する機会は殆どない。
電子書籍よりも本を買って読む機会が増えている。長らくオンライン/デジタル生活でモノを減らすことに意識が向いていたけれど、最近はオフラインの時間を出来るだけ増やしたいという気持ちが強くなった。サーチエンジンも極力使わない。仕事上のやり取りに関しては引き続きテクノロジーを活用しつつも、創作や発想、娯楽に関しては「レス・デジタル」な方向で考えてみたい。
ふと興味が湧いてサイバーセキュリティの本を何冊か読んでいる。「フールプルーフ」というのは言わば「ポカ防止」、つまり誰かがミスをしても致命的な状態に進展しないような仕組みを設計すること。ただ、ヒューマンエラーというのは人間の想像を超えたとんでもない角度やレベルで起こる。ということを僕も少し前に思い知らされたが、最近のホワイトハウスは「フールプルーフ」ではなく「プルーフ・オブ・フールズ(愚か者達の証し)」と化してきた。
社会や組織のルールに従わないと制裁を受けたり反発にあうが、自分で作ったルールに関しては、それに従わなくても誰も困らないしすぐに何か悪いことが起こったりもしない。その分、自分の「鉄則」や「システム」を作り、それらに忠実でいるというのは訓練が要るし、実現が難しい。鉄則の作り方は学校では教えてくれないし、むしろ学校や社会はそんなものを各々に作られると困ると思っているかも知れない。なんて書いてたら、ふとこの曲がよぎった。
ダニエル・カーニマンの研究成果を礼賛し、話題にする人は日本にも多い。僕は人間の行動心理のパターンをさも誰にでも当てはまるかのように「〇〇理論」と名付け、知識として「お勉強」する風潮は、全然科学的ではない行為だと思っている。まず実験の再現性が低いことに加え、アメリカ人を被験者にした実験が日本人にもあてはまるかの検証を誰もしていない。こういう確証性の低い”理論”を「マーケティングの道具」として得意気に説くのは小賢しく、罪深い。