世の中「○○するには××しないといけない」という、「そんなの誰が決めたんだ?」と言いたくなる「妙な常識」「金科玉条」「心理的障壁」がまだまだ多すぎます。それで委縮して時間を持て余すには、人生は長すぎる。大事なのは自分の信念を行動にする「意志の強さ」です。風説を信じて飛び込まないでいる自分の中の「臆病者の杞憂」を、まずは追い払いましょう。
音響効果は映像にとってベースの様な存在
先日ある音響効果の会社を訪問してきました。Model Electronic のブログに載せるための情報として、音源のテレビ番組/映像への使用サウンドデザインなどについて僕が普段興味のあること、また分からないことなどをお聞きしようと思ってアポを取ったのですが、編集作業の勘所から音源の使用方法、また音源ライブラリの様々なビジネスモデルについてまで説明して頂き、多岐に渡って実にためになる取材となりました。
話を伺っていて一番印象に残ったのは「音響効果は映像にとってベースの様な存在」という言葉。つまり前面に出て主張するものではないが、なくてはならないもの、という意味です。確かに、曲作りの際にベースラインを変えただけで曲の印象が全く変わるのと同じような存在感・全体に与える影響力を、音は映像に対して持っていますね。非常に的確な例えだと思いました。取材した内容の一部は翻訳したのちにブログに掲載する(これに少し時間を要します)予定ですので、お楽しみにしていて下さい。
アイデアやデザインを「ライセンス」するということ
先週に続いて洋書になりますが、今『One Simple Idea』(Stephen Key) という本を読んでいます。著者のStephenは自分で考えついた様々なアイデア、デザインを企業にライセンスすることで大きな成果を上げている起業家で、米国で大ヒットしたTim Ferriss(ティモシー・フェリス)の著書 “The 4-Hour Workweek” の中で紹介されたことにより世間から注目を受けました(「週4時間だけ働く」は読み解き方にそれなりに注意が必要な本なので、推薦とまでは行きません)。まだ僕も途中ですが、この本に共感するところはその内容だけでなく、彼の楽観的で創造的なアティチュードです。創造的というのは所謂クリエイティブにモノを作っているという意味だけではなく、人生全体をクリエイティブで豊かなものにしようと心がけているという意味においてですね。文章も小難しい表現を避け、読み手の興味とチャレンジ精神を高めることに注力して書かれていて、好感が持てます。
アイデアやデザインを売る、ということになると必ず出てくるのが著作権や登録商標、もしくは特許の話。もちろんこれらを知っておく事は非常に大事だけれども、知っていればもちろんアイデアが浮かぶわけでも、そのアイデアが多くの人に受け入れられるわけでも、またさらにはアイデアが完全に守れるわけですらありません。そこを過大評価し過ぎる、もしくは大して行動もしていないうちから「起こってもいないこと」を予防しようと躍起になっても、結果としては弁護士・弁理士の先生と特許庁を儲けさせるだけです(笑)。あまり神経質になったところで、よほど気前の良いベンチャー・キャピタリスト(というかエンジェル)でも見つけない限り、アイデアを公開する前に見えない恐怖に煽られプロジェクトが頓挫もしくは破産してしまいかねません。そんなことのカモになる役回りは、100億カジノにつぎ込める位余裕のある方にお任せしておきたい(爆)。冗談はさておき、その辺りの固定観念にどう対応し、楽しく創造を続けるかについても、上の本では著者の実体験を持って丁寧に説明されています。
(蛇足ですが、弁護士・弁理士さんに関わらず、「士業」の先生が言うことは基本的に(見え)ない穴を穴として顕在化させるマッチポンプ的な視点(=「奥さん、キッチンはバイ菌だらけですよ!」的な恐怖訴求)が常にあると考えた方が良いと思います(もちろんそのテクニック自身が悪いわけではない)。僕自身も様々な試行錯誤を経て、今は大変信頼できる先生方とお付き合いさせて頂いています。)
世間の「悲観論者」と心の中の「臆病者」を追い払おう
そんな事を考えていて今日のタイトルに至ったわけですが、世の中「○○するには××しないといけない」という、「そんなの誰が決めたんだ?」と言いたくなる「妙な常識」「金科玉条」もしくは「強迫観念」「心理的障壁」「杞憂」がまだまだ多すぎます。「間違ったベクトルの完璧主義」「減点主義」と言い換えても良いでしょう。そして困るのは、この金科玉条が実のところは誰かの儲けなり既得権益を守るための口上(結果的にそうであれ)に過ぎない場合も多いことと、それよりずっと大きな問題として、そういった一人一人が抱える心理的障壁・萎縮が世の中(敢えて言えば日本)を前進させるドライブ・意欲といった「熱」を自らの手で奪ってしまうように感じることです。
最近よく聞くのが、「海外で(と)仕事をするにはTOEIC○○○点以上必要」という触れ込みですが、この恐怖訴求(?)のお蔭で運営者&関連教育機関・書籍はさぞ儲かるでしょう。金科玉条だと思わないで力試しに受けるのは大いに結構だと思いますが、メディアの書き方によっては「○○○点取らないと海外で(と)は仕事をしてはいけない」かのように聞こえる時すらあり、非常に違和感を覚えます。そんなの待ってたら満足の行く点が取れた頃にはまた別の「出来ない」事情が出来てしまう(健康、経済面、年齢など)可能性だってありますから、風説に惑わされず自分の意志と動機を大事にすべきです。その風説も経験した事がない人が無責任に語っている場合が殆どな訳だし、そもそも海外のネイティブ・スピーカーはTOEICの存在を知らないし、興味もありません(漢字検定と同じとまでは言いませんが、実は非常にローカルな試験です)。何か資格的にハードルがあってTOEICの点を稼がなければキャリアに影響する場合や、スコアアップ自体が動機になっている場合は別ですが、実践という意味では、Facebook などで海外の友達を見つけてSkypeで共通の話題をチャットしたりする方が遥かに良い練習・度胸試しになるのではないでしょうか。
その昔、高校生の頃自分も「音楽でプロになるには正統的な教育を受けなくてはいけない」とか「メジャーのレコード会社からデビューしなければいけない」とか、世間の金科玉条を勝手に信じていたような気がします。確かに当時は今と状況もかなり違っていわゆる「プロ」という肩書きを得るのはかなり狭き門でしたが、その後大きく常識と定義が崩れ、デビューがどの国であろうが、どんな教育を受けどんな音楽をしようが、それを聴いてくれるリスナーとマーケット(需要)があって真剣に取り組む価値のあるならばそれが(結果的に)プロだという風に理解出来るようになりました(もちろんプロになっても学ばなくてはならないことは沢山あり、感性一発ではやっていけませんが)。
経験を積むにしたがって、結局のところ大事なのは「パスポート」や「資格」ではなくて強固な「意志」であり、最初に抱いていた金科玉条は単に「風説を信じて飛び込まずにいる臆病者(=当時の自分)の杞憂」だったのだということが分かりました。その後何であれ飛び込む勇気がつき、また世間(Naysayer, Doomsayperと言われる悲観論者) の見解や風説に全く動じなくなったのはそういう経験があったお蔭だと思います。
“Who said a funk band can’t rock?” (ファンクバンドにロックが出来ないなんて誰が言った?)と言ったのは御大ジョージ・クリントンですが、今や”Who said a black man can’t be a president?” はもちろん、 ”Who said a woman can’t be a president?” も誰も言わないでしょう。大統領や首相になる必要はないかも知れませんが、とにかく、自分の心の中や周囲から「○○するには××しないといけない」という囁きが聞こえてきたら、”Who said that?” “Who decided that?” (誰が言ったんだ?誰がそう決めたんだ?)ではね返す習慣をつけたいものです。
先日のオリンパスのM&Aにまつわる事件で、New York Timesかどこかの米新聞系ブログで「日本人は昔から組織ぐるみになると金銭のモラルがひどいから、まあ想像の範囲だな」みたいなコメントが書かれていて悔しかった。確かに日本のコーポレートガバナンス(企業統治)はロシア、中国よりも低いという見解(参考記事)もありますが、これは上の様な「集団的強迫観念」が他の国に比べて異常に強いことの裏返しなのかも知れません。個人的にはそういった伝統的・因習的な強迫観念の呪縛を離れ、”Who said Japanese can’t ○○?” (日本人には○○は出来ないなんて誰が言った?)と海外にガンガン言い返せるような、ポジティブな事例がどんどん生まれる世の中になることを望んでいます。
ちなみに僕が英語を勉強する理由の半分は、「ネイティブ・スピーカーと口論(口ゲンカ)で負けないため」です(笑)。不思議な事に、人間仲良くなる時は言葉はさして要らないのに、ケンカやトラブルの時は(暴力は論外)饒舌な者が勝つんですよね。「言わぬが華」が全く通じないあちらには口の達者な人間は本当に多いですから、日本人以外と仕事をするならネットワーク作りの手段としてはもちろんのこと、「武装」という側面でも英語を身につけないで素手で臨む訳には当然いかないです。